えらいめにあいました〜(後編)

そして 帰ってまいりましたよ、東京へ。ちょうど10日ほど前に。横浜の実家には一週間ほど滞在してました。

急遽、原稿を出すという方向になったため、仕上げてから帰ることになったのです。なにしろ東京の仕事場は破壊されてるので。しかし、取るものもとりあえず逃げてきたため、資料はねえ、画材はそろわねえ、(『オラ東京さいくだ』風に読んで)お手伝いしてくれるレイちゃんは呼べねえで、どーする気!?と自問自答。

とにかく何にも考えないでがむしゃらに描くしかないという結論に達する。幸い掘り起こした原稿は墨汁もかぶっておらず、端が何箇所かやぶけただけ。それに今回は描きたいトコだったんです。『岳太郎・俺の道編』いわゆるなれそめ編3部のクライマックスでして、せっかく地味に地味に下ごしらえしてきたのに、今回掲載されないのは、読者のみなさんにも申し訳ないし、自分も納得がイカンし、で。なんとかしちゃわなくちゃーとユルく心に誓う。

そこに同神奈川県に住む、我叔母・ヨーコさんも家族の心配から(日中一人なので)、ここ新井実家に避難してくることになり、実家は女系大家族に。しかし、そーなることによって、家事は母と叔母にまかせることが出来、アシさん飯作りもないので、自ずと仕事に集中出来るようになる。

簡単なベタやトーンを娘に教えながらやってもらい、(ヒマそうだし)、描いてる横では文鳥バニちゃんがケージから出せとガシャンガシャンアピり、原稿の上にエサを飛ばし、足元では実家の愛犬・柴犬のネネが遊んでくれとボールを持って擦り寄ってくる。

ただ一人の男、ダンナは ここにきて健康生活。朝 実家を出て、東京の被災した我が家に向かい、仕事場と資料の片付けを日中いっぱいやって、夜帰ってくる、という勤め人のようなサイクル。夜も早くに眠くなり、朝は早朝からネネの散歩で、当人はどうか知らねど、いいことだなあと感じ入る。



そんなワケで、思いのホカ過ごしやすかった避難生活でしたが、いつまでもグッチャグチャの我が家を放り出しておくわけにもいかず、原稿が上がってすぐ、東京に戻りました。

帰宅して心底ガッカリ。こんなにヒドかったっけ〜?!なんか目が覚めました。この日から、すでに10日くらいたってるワケですが、連日頑張ってるのにまだ片付きません…。

ダンナ仕事場・アシさんの寝る部屋、みんながご飯食べたりするリビングはなんとか復興しましたが、娘の部屋と自分の仕事場なんかが後回しとなり、まだもうちょいかかる様子です。しかし仕事はもう始めなくてはならず、再び「どーすんの〜?!」と笑うしかなかったりして。



しかしどーなんだろう、都内でありながらこの被害…。これはやはりウチが資料をはじめとする、モノが多すぎたために出た被害なのでは?普段からだらしねーし。地震のせいにばっかりするのは図々しいかも…と激しく反省するも、やはりウチの近所結構被害出た模様。近所の方々に聞いてみて初めてわかりました。最寄の牛丼屋さんは建屋が隆起してしまい一時閉店。また近くの会社も震災時、女子社員が泣き出すほどの揺れだったとか。買い物がてら外に出れば、半壊してシートが被せられてる建屋が結構あったりして、う〜む、この辺も地味に被災してるな、と実感。

震度5強ってホント?ダンナの職場では『心の震度7』って言われてるらしいですが。しかし それでも日々、日常に戻ろうとがんばってますよね、国をあげて。えらいよな〜日本人て。えらいよ、みなさん、我々。 (ここにきてヤケクソに自画自賛



というワケで、震災直後に心配して電話やメールを下さったみなさん、余震が続く中必死の作業にあたってくれたアシさん達、新井妹K、ご近所のKさんご夫妻、ハガキでお見舞いくださった方々、みなさま本当にありがとうございました!!! く〜っ 人情が身にシミジミしみてきた〜!



最後にダンナ実家近くの山にある梅林の梅の木の写真です。去年亡くなった義母が「梅祭やってるわよ、見に来れればいいのにね」と毎年言ってくれてたんですが、今年初めて見に来れました。何がどう繋がるかわかりませんね。スゴイな、人生って。